10% CASHBACK ON AMAZON ITEMS 06/20 16:00 - 06/28 16:00 JST SHOP NOW
✈️WE SHIP FROM JAPAN TO YOU! SEE OUR CUSTOMER STORIES 📦 WATCH NOW

[真作]:紀州三大南画家!/[野呂介石・巌古歌画賛・紙本]/紀州和歌山湊紺屋町/師・池大雅 Used item

Current price
¥12,000
$78.41 USD
Buyout price[?]
¥12,000
$78.41 USD
Minimum bid: ¥12,000
Ends in: 6/26/2024 4:15:12 AM (Tokyo)
Current time: 6/24/2024 10:42:35 PM (Tokyo)
Number of bids: 0
Available: 1pcs
Leading bidder:
VAT: 0%
Return goods: Impossible
Item condition: Used
Shipping within Japan: Not free
Auction ID: l1133698372
Early finish: Yes
Automatic extension[?] No
Original Japanese name: [真作]:紀州三大南画家!/[野呂介石・巌古歌画賛・紙本]/紀州和歌山湊紺屋町/師・池大雅
This auction ends in:
1 day, 5 hours


This item page on Yahoo Show bids history Ask a question about this item Report abuse
How much will it cost?
g
The limit of weight of parcel iskg
Please note that the description is translated automatically. ZenMarket is not responsible for the content of this description. If you have questions about this item, feel free to contact us.
[真作]:紀州三大南画家!/[野呂介石・巌古歌画賛・紙本]/紀州和歌山湊紺屋町/師・池大雅

本紙=縦861×横258mm 紙本


[真作]の表記について
所定鑑定人がいる作品で、鑑定が取れなかった場合は、返品をお受け致します。
(落札後3ヶ月以内に連絡をお願い致します。)
公共機関の鑑定も、上記に準じます。
鑑定に関わる諸費用、返品時の送料等は、御落札者様のご負担でお願い致します。
作品を御返送頂き、受取り確認の後、ご返金をさせて頂きます。


野呂 介石
延享4年1月20日1747年3月1日) - 文政11年3月14日1828年4月27日))は、江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海桑山玉洲とともに紀州三大南画家と呼ばれている。ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した。を松齢(しょうれい)、は介石のほかに斑石(はんせき)~~。
紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医の野呂高紹の三男として生まれる。10歳の頃より藩儒の伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。一旦郷里に戻るが再び上京し、21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。25歳のときには大雅の妻の玉蘭が和歌山を訪問している。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころの来舶商・画家の伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂木村兼葭堂や紀州の先輩の桑山玉洲とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。34歳の時再婚したが花嫁は17歳年下の士族の出身であった。
終生を京都で過ごそうとしたが、藩命によって仕官することとなり46歳のとき紀州に戻った。勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。本草学にも詳しかったようである。江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽頼杏坪篠崎小竹田能村竹田本居大平などの交友が伝えられる。1810年、大和多武峰千手院に所蔵される黄公望の「天地石橋図」を臨模したことを大いに喜んでいる。公務で熊野の山中に分け入り、深山幽谷に数十日もあって山水の趣を体得したという。画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、写意のある画を求道した。墨竹図・山水図を得意としたが、特に熊野山中を描いたものが多く那智の瀑布は現在までに十数点確認されている。兄と慕うひとつ上の桑山玉洲とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。享年82。~~。


[玄関]