29 x 29 センチ (全体)
※全体サイズは表具の端から端のサイズです。軸先部分は含みません。
※商品の状態につきまして下記【重要なおしらせ】項目をご一読お願いいたします。 紙本(印刷ではなく、描かれている作品です。) 極箱(秦金石・平尾竹霞・頼潔) 極書き(平尾竹霞)
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【山本梅逸】1783-1856 江戸末期の文人画家。名古屋の彫刻師の家に生まれ,名は亮・ 親亮,字は明卿。画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。別号に梅華道人・玉禅・天道外史・葵園・友竹艸居・白梅居など。幼少から絵を好み,はじめ山田宮常,山本蘭亭らに学び,当地の豪商で古画収集家であった神谷天遊のもとに寄寓し,中林竹洞らと古画を模写研究した。22歳で竹洞とともに京都へ出るが,やがて諸国を巡って名古屋に戻り,1854年(安政1)尾張藩の御用絵師格に任ぜられて士分に取り立てられた。山水・花鳥ともに優れた技巧を示し,特に華麗な彩色の花鳥画を得意とした。
【中林竹洞】1776-1853 江戸後期の南画家。名は成昌,字は伯明。竹洞,冲澹(沖澹),大原庵,東山隠士,筆樵,融斎,痴翁などと号した。名古屋の医師の家に生まれ,はじめ山田宮常に画を学ぶが,のち豪商神谷天遊の庇護を受け,同家所蔵の古画の模写によって画技を磨いた。同門に山本梅逸があり,27歳で共に上洛。以後京都の南画界に重きをなした。作風は定型化した幕末南画のスタイルをみせ「長楽春望図」「孔雀図」(ともに個人蔵)などがある。また理論家で『竹洞画論』『画道金剛杵』などの画論のほか,儒学,国学などの研究にもとづいた国体論的な思想によるものなど多くの著書をのこしている。
【中西耕石】1807-1884 江戸後期-明治時代の画家。文化4年生まれ。陶工の家に生まれ,大坂で篠崎小竹の門にはいる。のち京都で小田海僊にまなぶ。山水,花鳥にすぐれ,日根対山,前田暢堂とともに「対暢耕」とよばれた。明治17年1月9日死去。78歳。筑前出身。名は寿。字は亀年。別号に茎岡・竹叟・石山断流閣等。
【今大路悠山】1790-1849 江戸時代後期の画家。寛政2年生まれ。京都聖護院の坊官。中林竹洞に文人画をまなぶ。嘉永2年11月6日死去。60歳。名は源秀。
【大倉笠山】1785-1850 江戸後期の画家。天明5年生まれ。名は穀。字は国宝。画を中林竹洞に,詩を頼山陽にまなぶ。家は代々山城(京都府)笠置の有力者であったが,家督を弟にゆずって京都にすんだ。妻は画家の吉田袖蘭。嘉永3年1月2日死去。66歳。
【雲華大含】1773-1850 江戸後期の浄土真宗大谷派の学僧。豊後生。名は末弘・大倉、別号に鴻雲・染香人等。京都に出て擬講・嗣講に進み、第九代講師に昇任。在京中七条枳殻邸の東に住したので枳東園とも号し、講学の余暇に頼山陽・田能村竹田・貫名菘翁らと交わり、詩文・書画を楽しむ。嘉永3年(1850)寂、78才。
【小田海僊】1785-1862 江戸後期の南画家。名は贏,字は巨海。南豊,百谷,海僊,茂林外史などと号した。通称は良平。長州(山口県)赤間関の染工の家に生まれる。22歳で上京。はじめ呉春につき写生的な画風を修得したが,のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や,粉本を学び,南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞,浦上春琴らと並び称せられた。
【山本竹雲】1826-1894 幕末-明治時代の篆刻家。文政9年生まれ。細川林谷に師事。篠崎小竹に漢学をまなぶ。煎茶道でも名を知られ,茶器の鑑定には定評があった。御璽刻者の選にもれたのを残念におもい,明治27年4月27日京都東山の池に入水。69歳。備前(岡山県)出身。名は戈。字は中立。
【頼潔】1860-1929 頼支峰の第一子、山陽の孫。名は龍三、字は庫三。号、華陽。
【秦金石】 南画家。安政2年(1855)京都生。名は辰。字尚珉、金石と號し、また應聲、萬善等の別號あり。中西耕石に南画を学ぶ。内国勧業博覧会・文展で活躍、日本南画協会の結成にも参加した。昭和18年(1943)存、歿年未詳。
【平尾竹霞】1855-1939 幕末・明治の南画家。安政2年(1855)丹波生。名は経悳、字は明卿。別号を妙々居士、半雲子。渡部弗措・田能村直入に師事する。京都住。
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